『記号化された表現は、もはや規定された既成の何かを与るにすぎないか、或いは我々の目を一時的に欺く抜け殻を残すのみだろう。』(岡田夜朗: 無限の生より。Webは こちら「人工無限-artificial infinity-」) 昔 YMO全盛の頃。 坂本龍一がこんなようなことを言っておりました。「『ライディーン』みたいな曲を作れば売れるのは分かりきっているしそれは簡単なことだ。でも僕らはそれを絶対やらない。」 もし彼らがライディーン2、3・・・みたいなものを作ってたら、きっとテクノポップは、(現在の)ユーロビートみたいな駄菓子ミュージックの地位を不動のものとしていたでしょう。 しかしこの手法を確信犯的にやっていると思われる人物がいます。JPOPの、AXS:浅倉大介です。彼はメディアでよく、 ディズニーへの敬意を公言してますが、最近思うのは、ディズニーのような総合エンターテイメントが彼のやりたいこと、というよりは、ディズニーの「大衆娯楽供給者」としての「立場」を、自分も踏襲したい、ということなのかなぁと。(辛いところは、双方とも既成表現を繰り返して娯楽を与えているにも関わらず、世間的(コアな音楽ファン)には浅倉=駄菓子アート作品→大衆娯楽、ディズニー=高度なアート作品→大衆娯楽、というイメージにとらえられているところでしょうか) 消費だけに甘んじている立場で、彼の楽曲をボロクソに公言する批評家気取りを見ると、「なに偉そうなこと言っとんじゃ。もっと羞恥の分別を持てよ。」と思ってしまう今日この頃。 それとも「なんでこんな楽曲でオレの好きなアーティストより売れてんだ?!」っていう嫉妬でしょうか(コアな音楽ファンにとってはこの辺、自分のアイデンティティに関わるんでしょうな)。昔、HipHop系でこんな感じのことをやたら言ってるのがあって、辟易したもんですが。でもこの国ぁ資本主義国家ですから。売れたもん勝ち、結果を出したもん勝ちですしねぇ・・・。この国の社会システムの恩威を授かりながら生活してんだから、そんなこと言いなさんな。 既成表現を繰り返し、コピー品のような作品ばかりで世の中が埋め尽くされたら、それは大変つまらない世界でしょう。しかし、一切の既成表現を弾圧するのも、またどうかと思います。そのような警告は、消費だけに甘んじている者がわざわざ言わなくとも(岡田さんはあのサイトにおいてはクリエイト側だから別にいいと思いますが)、クリエイトする側の人が自ずと気付いて(もしくはそれ自体がモノ作りの原動力となって)生み出していってくれるものだと思うんで、心配はいらないかと。消費者が「かや」の外からごちゃごちゃ言わなくとも、かやの中ではクリエイト側がしっかり戦ってますよ。世のほとんどの作品がコピー品になることなど、あり得ない。レコード会社の審査で引っかかるだろうし。コピー品ばっかり売れる状況というのも考えにくい。人間飽きっぽいし。だからそんなに目くじら立てるなと。 まぁーそれに、綺麗事言いますが、これから生まれてくるような子供たちにとって、私たちにとっては既成のコピー駄菓子アート作品でも、彼らにとっては、心のよりどころになるような、重要な位置を占める作品であるかもしれません。
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